2005年10月04日

渡辺紅月展(絵画)

68098a7a.jpg渡辺紅月展(絵画)2005年10月13日(木)〜10月15日(土)にて3F石田大成社ホールにて開催。詳しくは続きを参照。
会期:2005年10月13日(木)〜10月15日(土)
題名:渡辺紅月展(絵画) 
会場時間:午前11時より午後7時まで
場所:3F石田大成社ホール
入場料:無料
オフィシャルサイト:http://homepage3.nifty.com/cozky/index.html

渡辺紅月氏にとって、約10年ぶりとなる京都での展覧会です。
短期間ですが、その緊張感のある仕事と空間をお楽しみください。(石田大成社ホール)

私が絵画というイデアルな形式によって身体を表現することは、その感性的な美しさに欠損、
未完成さ、断片性を認めそれ自身の持つ意味を秩序づけること、また、その思考を実現させる
ために向かう行為である。ここに表現するものは生と死、精神と物質のあいだをトリックスタ
ーのごとく遊技的に逸脱してみせることである。その肉体は限りなく死に近接しながらも重な
り合い、あるいは視線を投げかけ、色彩の生命的意味の組み合わせによってあくまでも雄弁に
生を模倣させる。けだし大部分の地上的なできごとは私にとって重要といえるのだが、息もで
きないほどこれらは近くに寄り添う。私はこのあまりに私的ないきられる空間の狭さや対象の
あまりの近さによって、「風景の空間」にとどまらされている。私の肉体や知覚はただ突き抜
けるだけの時間のなかに与えられたこの風景を常に世界の中心として受け入れられるように促
すのだが、しかし私はここにとどまりながら詩的霊感あるいは神的な狂気を求めるために同時
に他所にいなくてはいけない。夜闇の平安のなか、夢、時間をさかのぼりかつての自分と対話
することなど。しかしそこにはもっとも“死”を思惟することが必要となる。リルケも書き記
したごとく果実に核があるように誰しも“私”はその中心に死を必ず内包している。
この真実は、いま生きる時代においてあらゆるところで感じとる容易い死の匂いと共にその尊
厳を全うする可能性を既に喪失させたといえる。私はこの厳酷で孤独な旅のなかに生きるよす
がとして絵を描き、その世界において Monastical であることをのぞんでいる。
私はにはその肉体が分解され最小の粒子となって飛散しても、いつかふたたび神の意志によっ
て統一されるまで現世のくちづけを受け、祈りのなか骨のまま復活するそのときを待つ美しい
信念をもった者のように、支持体から発せられる静かな声を筆で掬いあげるのである。

渡 辺 紅 月

個 展
1996 ブリティッシュカウンシル“The Original Water”京都(画廊企画)
1998 ギャラリーエス “The Original Water”東京(画廊企画)
2002 ギャラリーQ “The Cradle” 東京
2002 ギャラリー風 大阪(画廊企画)
2003 ギャラリーQ “Intimate Stranger” 東京
2003 ギャラリーイズバ ノヴィサド セルビア
2004 ギャラリーQ Reinigung der seele” 東京(画廊企画)
2005年 ギャラリーK  岡山(画廊企画)
2005年 Galerija MOST セルビア&モンテネグロ、

グループ展
1993 ベネッセ直島コンテンポラリーミュージアム 岡山(美術館企画)
1994 ミヅマアートギャラリー“Face Passions” 東京(画廊企画)
1995 ギャラリー風 大阪(画廊企画)
1996 ミヅマアートギャラリー “Gaze & Perspective”東京(画廊企画)
1999 上野の森美術館 VOCA展 ’99 東京
2003 ミケッティ財団美術館 “プレミオミケッティ” アブルッツォ イタリア
2003年 国際現代美術展 台湾、
2003年 KIAF特別招待展 韓国 
2004年 シンポジオン プログラム  ハンガリー、ドイツ
2005 ドイツ年-現代美術の交流-2005 ベルリン ドイツ

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